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一般質問の通告の締切日。
資料作成に追われ、一般質問本体が、危ういですね〜
夕刻、定例の幹事会。その後、本部。
夕刻、本日2回目の幹事会、そして、団総。
副議長候補に、永野先生を選出。
またまた、平岡龍人政経塾のお話し。
次回、水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」について、担当。一般質問があり、作成に手間取っていて、非常にまずい。
しかし、都銀や地銀、信託へ行った同い年くらいの方々からは、同じような話しを聞くんだな〜
その理由がよく分かりました。なるほど。
府議会の先生からも、資本主義ってさ〜と、聞いた覚えが。
繕って続けている感じもするし、だからと言って、転換する具体策もなく。浜田さんくらい明確な政策でないと、動かせない。しかし、理屈はその通り。
だと思う。
光平寺の平岡龍人政経塾で、龍人先生が、毎朝浜寺公園の散歩時にゴミ拾いをしていると。そうした目で眺めると、結構ゴミ拾いしながら散歩している方はいると。
自分も、17年くらいひっそりと続けてるけど、最初は、朝立をしているときに見かけた、箱作駅を毎朝自宅からゴミ拾いをしているご老人の姿から。身なりは貧しく質素、本当に目立たない、通勤・通学で行き交う朝の時間、誰も気にもとめないし、お話しをしてみれば、ご自身も非常にご謙遜され。しかし、私は、感動。何の自己主張もなく、極普通に、呼吸をするように、一隅を照らす。もう、亡くなられて久しい。この生きざま、その姿は、私にとって、忘れ得ぬ人々のうちの一人、しっかり心に刻んだ一人。

昨日、アップ出来ませんでした。写真が重くて、フリーズしてたのでしょうか。
龍人先生の塾
寺小屋
落ち着きます。
月曜日、一週間がはじまりました。
一般質問の打ち合わせ・作成で、府庁に缶詰状態が、続いてます。
昨日から、携帯でアップしようとした3件の記事が、アップされてません。残念。
平岡龍人政経塾や泉南市長選挙など、携帯写真入りだったのですが。どうしてアップ出来なくなったのか調べないといけなくなりました。多分、面倒な作業になりそうです。
5月議会は、議会役員選出(役選)議会。
それに先立ち、会派内の人事を決定したのが、今日の団総。
大阪維新の会の府議会での私は幹事、その所属は幹事会となりました。
先ほど、幹事会が開催されました。状況は非常に厳しいなかで、どんな貢献をするべきか、どんな貢献が出来るのか、悩ましいです。
幹事会は、2年ぶりです。



今朝の起床時間は、5時半。目標は、4時。だいぶ、遅くなってしまっている。
朝の時間は、確実に自分のために使える時間。
4月は読書。5月は運動。筋トレですが。
その後、報告書のポスティングも。
6時台に、ポスティング中、中学生の登校をたくさん見かける。朝練だそうだ。地区大会が順次行われ、次は府大会だと、バレー部女子。
そういえば、自分の頃と変わらない。毎年、この頃は朝練だった。テニス部だった自分の時は、夏休み前に府大会16番目で終わり、近畿大会には行けず。中3の夏は終了。受験勉強へ突入、という流れ。あの頃から、30年以上経ってるんだな〜。同じ中学校の後輩たちも、頑張ってますね。今も昔も、変わらない風景は、ありますね。
それなりに年を重ね、年齢もそこそことなり。
かなり省略しますが、
ある方から。
権力とは、そういうもんだ。だからといって、それは腐った組織であり、そんな組織はもたない。トップがたった一度でも、原理・原則から外れれば、あのときはどうだ、このときはどうだと、収集がつかなくなる。松井知事は、原理・原則で動くから信頼できる。結局、権力や組織の腐敗とは、トップから始まる。下が優秀でも関係ない。だから、非常に慎重になる。いろんな情報がもたらされて訳がわからなくなるなか、選択は原理・原則。それ以前の正解や正しい解すらだせない者なんて、論外。
ある出来事に対するある民間組織人の見解の省略形。私もそう考える。新鮮だったのは、トップの見解。
備忘記録。
そのうち、一年以内に正確に記載する日が来るかもしれないが。
もう降りだしました。雨の日です。
東京では、震度5弱の地震があったとか。
さて、昨日の夜、またまた、山にこもっていましたが、残念ながら星空はみれず、曇りの夜空でした。
でも知ったことがあります。曇りの夜の方が、明るい。関空が近いので、関空の灯りが雲に反射するためです。放射冷却の理屈で、説明がつきます。そういうことを、この歳になって、身をもって新たに知りました。失敗からも、学べます。
海にきて、夕日を眺めず帰るのは、もったいないよねと、先ほど記載しましたので、夕日を見ることなく帰られた方々のために、本日の夕暮れ写真を掲載しておきます。
スゴくきれいな夕暮れ風景でした。
『まちの風景(趣味のページ)』も、ご覧下さい。
また、
『土井達也のホームページ』もね。
考えるんですよね。同じようなこと。
前日まで草刈りでクタクタになった翌日、5年前の8月31日に解放骨折。長期入院。
毎日、遠いところを見舞いに来てくれる娘たち。その職にあって、この世代に何を残せたんだ?
3年前の指宿菜の花マラソン、42.195㎞フルマラソン、意地でも、這ってでもゴールしやろう、自分への挑戦。
その頃から、維新の会も、大阪から挑戦が始まる。
「すべては、次世代のために」
まったく違和感なく、そう思う。
任期が、あと1年。
何が、残せただろう? そして、あと1年、何を残せるだろう?
LAST DAYS
NHKのラスト・デイズ
忌野清志郎×太田光
大きな矛盾を抱え、自分だけの道を探せ
旅の終りに
カバーズ
野暮だと分っていても、やらなければならないときがある
「尾崎」の記述があったので。
「 店は南海電車の尾崎駅の近くにあった。尾崎は南海電車の急行で難波から四十分ほども南へ下ったのどかな町である。駅から十分も歩けば海岸線に出る。海岸線には小さな港が大阪湾に向けてぽつりと口を開けていて、山手にはなだらかな丘陵地帯が続いていた。その昔、尾崎は南海電車の南の終着駅だった。
店に、日曜日になると顔剃りにやってくる二人連れの若い女客がいた。そのうちの一人がセツ子だった。
女客のもう一人は、セツ子の会社の先輩である。その先輩が思いを寄せていた相手が理髪店で働いていて、セツ子は先輩の付き添いで店に来ていた。
府下南部の泉州は紡績業で栄えた地域である。高度成長期、泉州の紡績業は西日本一円の労働力を吸収して発展した。尾崎はその工業地域の南の端に当たる。セツ子もまた鹿児島から集団就職で紡績会社に就職したひとりだった。
知り合ってすぐに、津田はセツ子をデートに誘うようになった。よく喋る男の人やなあ、というのがセツ子が抱いた津田の第一印象である。故郷の鹿児島で寡黙な九州男児を見て育ったセツ子は、長崎出身だという津田の多弁な姿に、これが同じ九州の男なのかと、驚かされた。
「セっちゃん、一緒に暮らそう」と津田が言い出したのは、出会ってから間もない頃である。」
「村上海賊」では、泉州海賊の泉州弁が記述されてましたね。
写真はありませんが、私の車の前、ベッドライトに照らされたイノシシ。
山の中に、猪突猛進。
星野写真を撮りに、田山川を上流へ。出会っちゃいました。
ビックリした〜
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